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第六話 #6-1

(俺、絶対……ガーラントに飼われてる男娼だって思われてるよな……)

 お茶を運んできた小間使いの女の無遠慮な視線までがそう語っていたような気がして、ニコルは思わずため息を漏らした。
 ローマの中心部に近いこの屋敷に落ち着いて、もう一週間になる。
 そしてそのあいだ、ニコルは明らかに使用人のためのものではない居心地のいい部屋と上質な絹の衣服を与えられ、これといった仕事を言いつけられることもなく毎日を上げ膳下げ膳で過ごしていた。
 ホルテンシュタットを出るときは夜逃げ同然の慌しさだったし、ローマまでの道中を振り返っても、昼も夜も休みなく街道をひた走り、宿を取って休んだ日など片手で足りるほどしかないという強行軍だった。こんな調子ではローマに着いてからもさぞこき使われるのだろうと腹を括っていたのだが、拍子抜けもいいところだった。
 多少の息苦しさは感じるが、この屋敷の居心地は……悪くない。
 使用人の数はさほど多くはないが、誰も彼も長くこの屋敷で働いているようだった。おそらくエヴァンは何年も前からローマを拠点にして動くことを考え、すべての準備を整えていたのだろう。万事に神経質なエヴァンらしく、使用人たちには事細かに役割分担が定められていて、屋敷にはわずかな乱れも許されないとでもいうようにいつも緊張感が漂っている。
 ニコルの存在は、その中で明らかに異質な曖昧さを持っていた。
 むしろ異質で曖昧な存在であることを、わざわざ強調するためにこんな服を与えられ、屋敷に置かれている……というべきなのかもしれない。
 それが何のためなのか気付いたとき、ニコルは運ばれてきたばかりの熱々のお茶を、いかにも高そうなポットごとエヴァンに投げつけてやりたい衝動に駆られた。つまり、すべては旦那様(エヴァンのことだ)と正体不明のニコルという馬の骨が、お茶を運ぶついでについつい物見高い視線を投げずにはいられないような関係にあるらしい……と邪推させるための演出なのだ。
 屋敷には、毎日のように客が訪れていた。
 挨拶をしろといわれて呼び出されるようなことは一度もないのに、ニコルがそういう客と鉢合わせせずに済むこともまた、ほとんどない。

『失礼、私が縁者から預かっている少年です。どうも……甘やかしすぎたようで、猫のように気ままに屋敷の中を這い回っている。困ったものですよ』

 そういう時にエヴァンが、いかにも後ろ暗い関係だとほのめかすように口ごもるのもお定まりの光景だった。
 エヴァンは表向きは、オデルハイム国王の使者のひとりとしてローマに滞在している。病床にある教皇を見舞うための使者ではあるが、その役割はもっと高位の家臣に任されていて、エヴァンはその随行員という形だ。
 もちろんオデルハイム国王の懐刀とも噂される切れ者が、ただの見舞いのお供ではるばるローマまで足を運んだなどとは誰も考えてはいない。やがて訪れる教皇の死後、誰が次の教皇となるか……それを探るため、あるいは何らかの工作をするために送り込まれたのだと思われているに違いなかった。そしてエヴァンは、オデルハイム国王もまたそのことに重大な関心を寄せているのだと知らしめるための駒だった。
 噂通りに真面目ぶった禁欲的な外面を取り繕っているが、国を離れたローマの地では羽根を伸ばし、屋敷にこっそり少年を囲ってお愉しみも忘れてはいない。エヴァンはそういう鼻持ちならない……そして、つけいる隙のありそうな男を演じているのだ。
 ニコルの役割は――はっきりとそう命じられたわけではなかったが――それを客に印象付けるための小道具となることなのだろう。

(こんな役……他の誰かにやらせろよ)

 舐めるような粘っこい視線を客に浴びせられるたびに、ニコルは笑顔の裏でそう吐き捨てたい気分になっていた。
 とりあえず今のところニコルが小道具に徹しておとなしく愛想笑いに精を出しているのは、エヴァンが実際に男色の相手をさせる気などさらさらないし、客の相手をさせるつもりもないのだ……と思えるからだった。
 客がいないときのエヴァンの、掌を返すような態度を見れば、それはありありと伝わってくる。客の前では「少年」とか「あの子」とか、さも愛情を注いでいるようにニコルのことを語っているのに、ふたりっきりの場所では「おい」、「小僧」がせいぜいで、名前で呼ばれることさえほとんどなかった。ぞんざいな扱いに安心するというのも奇妙な話だが、状況が状況だけに他にすがれるものはない。
 ……そして、では愛想を振りまく代わりにおまえには何ができるんだと問い詰められても、何も言い返せない身の上であることも、ニコルが当面は可愛い子猫ちゃんを演じているしかなさそうだと思える原因のひとつだった。
 エヴァンは策略に使う駒のひとつとしてニコルを連れてきたのに、今はまだ仕事を言いつけられるどころか、その手前の段階で足踏みをしているような状態なのだ。

(どうせ俺には、暗号なんてちんぷんかんぷんだよっ!)

 読みかけの手紙からふと目を上げてニコルはまたため息を漏らした。
 読まなければならない手紙は百通以上あり、その一部はホルテンシュタットの市場でニコルが回収してきたものだった。
 どの手紙もその文面をごくまっとうに読めば、どこにでもありそうなつまらない手紙だ。だが、恋文だったり、商売の事務連絡の手紙だったりする文面のあちこちに、人の名前や日付などが暗号で隠されている。
 その手紙の、最初の一通でニコルは躓いたままだった。
 暗号のしくみは、一応理解している。
 ホルテンシュタットからローマへの旅のあいだ、ニコルはうんざりするほど繰り返し、ややこしい暗号のしくみを教え込まれていたのだ。
 光栄なことに、エヴァンがじきじきに教師役を買って出た。そしてそれは……この上もなくエヴァンらしい、底意地の悪いほどの懇切丁寧な教え方だった。
 策略の情報を秘密裡にやり取りするための暗号なのだから、教本や手引書などないし、覚書を作ることも許されない。旅のあいだずっと、ニコルはひとつの間違えもなく完璧に覚えたと判断されるまで、延々と同じことを聞かされ続け、同じことを暗誦させられ続けたのだ。間違えたり言い淀んだりすれば、即座に、もう一度最初からだ、と言われる。
 ローマまでの道のりが、振り返ってみれば悪夢か拷問のように感じられるのは、決してその慌しさのせいばかりではない。
 ローマに着くと今度は実際に秘密の通信に使われた手紙を渡され、内容を正確に読み取ってみせろと言われている。
 もちろん、それも覚書を作ることは一切許されない。
 暗号のしくみはすでに文字通り反吐を吐くほど叩き込まれていたから、手紙の文面から特定の単語を拾い出すことができれば、その意味は読み取れる。だがすべての単語を漏れることなく拾い出して通信の内容を正確に理解することは決して容易ではなかった。少なくともまだ、エヴァンを満足させるまでには到っていないようだ。
 どこを間違えているとか、読み落としている単語があるとか、そういうことをエヴァンは何も教えてはくれない。読み取った内容を最後まで暗誦させてただ一言、だめだ、と言うだけだ。
 最初の数日は読み落としている単語があって、不完全な文章しか作り上げることができていなかった。ようやく意味の通る文章を作り上げても、今度は暗誦しきれずに何箇所か間違えていた。それは自分でも分かっている。だが、もう……これ以上は何もないはずだった。内容はすでにすべて諳んじていたし、昨日は言い淀むこともなく暗誦できていたはずなのだ。
 それなのにエヴァンはそれまでと同じように、だめだ、と言って席を立った。

(これ以上……俺には無理なのかも)

 どれだけ手紙を睨んでいても、昨日と同じ文章しか思い浮かんでこない。
 五人の人物の名前。街一番の娼婦に花を贈るためには誰が協力してくれるとか、この人物に贈るためにこんな銘柄のワインが必要だといったことがそれぞれに書かれている。花は毒薬、ワインは賄賂のことだった。ニコルが教えられた中にはなかったが、「魚料理に合う辛口の白」とか「秘蔵の年代物」とかいちいち挙げられているところを見るとそれも何かの符牒なのだろう。賄賂として何を送るべきかを報せているのかもしれない。効果があるのは金か、地位か、あるいは性の愉しみか……おそらくはそういう違いなのだろう。
 ……何度読み返しても、その文面から読み取れるのはそれだけだ。

(もう……読み落としている単語はないはずだ)

 八方ふさがりという気分にもなって、ニコルは窓の外に目をやった。
 例えばこの手紙の中から読み落としている何かを見つけ出したとしても、エヴァンが褒め言葉を口にするとは思えなかった。暗号のしくみを教わっていたときと同じように、表情ひとつ変えずに、次だ、と言うだけだろう。

(それなのに、何でこんなことを続けているんだろうな、俺は……)

 これが自分に向いた仕事なのだとは思えなかった。解剖学の勉強と同じように、何の成果も出せないままに終わりそうだという予感もある。
 だがあきらめようという気持ちは、不思議と湧き上がってはこない。

(ただ俺は、意地になっているのかもしれない。あいつに……ガーラントに負けたくないから)

 ニコルは十五歳のころには本気で解剖学の学位をとるつもりになっていた。そうすればコクトーが正式に弟子と認めて、工房への出入りを許し、人形作りのすべてを教えてもいいと言っていたからだ。身の程知らずにもそれが可能だと思っていたし、十五の小僧なりの真剣さで勉強にも取り組んでいた。
 だがあのころでさえ……今ほど集中してはいなかったし、頭を使ってもいなかったのだと苦く思う。
 甘えがあったのだろう。
 単に世間を知らなかったとか、自分の能力を過大評価していたというだけではない。限界は、あの当時すでに見えていたはずだ。
 だが、あきらめ切れなかった。
 これほど真剣にやっているのだから、たとえ成果が出せなかったとしてもコクトーがそのうちどこかで折れてくれるのではないか。心のどこかではそんな期待をしてもいた。学位、学位と言うが、コクトーだってそんなものは持ってはいないのだ。
 工房にもぐりこむことさえできれば、きっと……何もかもが上手く行く。
 そう思えていた時期が、確かにあったのだ。
 かつてはホルテンシュタットの街でニコルといっしょに遊びまわっていた小僧どもだって、今ではみんな仕事を持って一人前に働いていた。同じように馬鹿ながきだったあの連中もパン屋に勤めればパンの焼き方を覚え、肉屋に奉公に行けば肉の良し悪しを見分けられるようになった。だから自分も、コクトーの弟子になりさえすれば……自然とコクトーのように人形を作る方法を身につけて人形師になれると思っていたのだ。
 この先もずっと俺がコクトーを支えて、ふたりで寄り添って生きていくことができるのだ、と。

(そうして甘え続けた結果、あいつにコクトーを掻っ攫われた。二度と……あんな思いはごめんだ)

 窓の外を眺めながらニコルはそんなことを考えていた。
 珍しく庭にエヴァンの姿がある。ホルテンシュタットから連れてきた二頭の猟犬が一緒だった。
 よほど念入りに躾けてあるのだろう。犬たちはエヴァンが待てと言えば、次の指示をするまではまるで銅像のように動かず、屋敷の中に入れても粗相をすることも吼えることもない。他の者が鼻先で肉を振り回しても見向きもしなかった。
 エヴァンのご自慢の犬らしい。
 犬と過ごしているときもエヴァンはにこりともしないが、ニコルの見る限り、この屋敷にあるものの中でエヴァンが最も……あるいは唯一、愛着を抱いていると思えるのがその二頭の犬だった。
 あの犬たちと比べれば、ニコルなど、エヴァンにとってはいつ捨てても惜しくない存在なのだろう。

(そろそろあいつも我慢の限界って気がする……)

 さしものニコルも、そう感じ始めていた。
 策略の全容は相変わらず何も見えてこないが、すでに暗号の読み取り方を教えられているのだ。手紙の受け渡しに使われるだけの下っ端とは立場が違う。見所がないと判断されて見限られるようなことにでもなれば、叩き出されるだけでは済まないだろう。

(あの犬に食われるか、それとも、客の誰かのおもちゃにされて飼い殺しか……いずれにしてもろくな死に方はできないだろうな……)

 多分、あの犬たちはエヴァンが指示すれば、ニコルの喉笛を食いちぎるくらいのことはやってのけるに違いないのだ。だがそれでもこの屋敷を訪れる客の誰かに売り渡されるよりはマシなのかもしれない。
 どいつもこいつも欲望剥き出しの厭らしい目でニコルを見ていた。
 ――中でも最初に会った男は、最悪だった。
 手紙に書かれていた人物の名前のひとつが、その客と同じ名だと気付いたのはそのときだった。ローマへ着いた翌日のことで、まだニコルはエヴァンが何のために自分を厚遇しているのかも気付いてはいなかった。
 あの日、ニコルは広間から出てきた客と廊下で鉢合わせた。そしてすれ違いざまにいきなりその客に尻を撫で回されたのだ。思わず愛想笑いも忘れて殴りかかりそうになったから、あの客の顔はよく覚えている。脂ぎった中年の親爺。
 客が帰ったあとエヴァンはまるで世間話のように彼はどこに住んでいるとか、どんな家族がいるのだとかという話をしていたはずだった。男色を好んでいて、おまえを気に入ったらしいな……なんていう背筋の寒くなるようなことも言っていた。

(息子がふたり……いや、ちがう、それは三日目に来た客の方だ。フランスの貴族に嫁いだ娘がいて、女房は何年か前に死んでる。フランス人の枢機卿と親しくしていて、そいつを次期教皇にしたいと考えているとも言ってた。それから、何とかっていう長ったらしい名前の通りの白い家に住んでるって……そう言ってた。思い出せ、ガーラントは通りの名前を言ったはずだ)

 どうしても思い出せず、ニコルは立ち上がった。
 几帳面に分類されて収められた棚の書類を引っ掻き回して、目当てのものを探し始める。屋敷に到着してすぐ、この書斎に案内されたときに見せられたローマの地図がそこにあるはずだった。

『ローマの生まれとは言っても、どうせひとりで出歩いたことなどないのだろう? 暇なときにこれを眺めて、通りの名前くらいは全部頭に入れておけ。出かけるたびに迷子になるようでは使い物にならないからな』

 エヴァンはまず最初にその地図を見せ、読み方を説明した。細部まで丹念に記された地図には通りの名前だけでなく、建物の名称やその所有者といった情報までが書き込まれている。

(畜生、手紙に書かれた暗号を読み解くだけじゃ、まだ足りないってことか……!)

 客の名前やこの地図のように、手がかりはすでに与えられているに違いなかった。
 そしてそれは同時に……ニコルは自分で思っていたよりもずっと深いところにまで策略に足を突っ込んでいるということなのかもしれない。

(訪ねてきた連中はみんなフランス人の枢機卿と深い繋がりを持つ貴族や金持ちの商人ばかりだった。男を好む性癖も一致している。たぶん、フランス人の枢機卿もそういう趣味ってことだろう。……そして、ガーラントはあの連中に〈ワイン〉を贈って、利用しようとしている)

 最初の手紙は、一年以上前の日付だった。まだコクトーがホルテンシュタットの工房で人形作りの作業をしていたころだ。
 エヴァンは足繁く工房に立ち寄る一方で、こうした策略にも手を染めていたというわけだ。オデルハイム国王のための人形を作れというコクトーへの依頼そのものが策略の隠れ蓑として使われていたのかもしれない。
 暗号の通信文にあった〈街で一番の娼婦〉が教皇を指しているということはニコルにも察しがついた。教皇が病に倒れたのは、おそらくエヴァンが〈花を贈った〉結果なのだろう。
 だがエヴァンの目的が単に教皇の暗殺であるとは、ニコルにも思えなかった。それならエヴァンはホルテンシュタットにいて、こういう通信文で毒を飲ませろと指示を出すだけでいい。わざわざローマに出向いてくる必要などないはずなのだ。

(教皇が死ねば……次の教皇を決めるためのコンクラーベがある。ガーラントの狙いはそっちなのか?)

 フランス人の枢機卿と、その男を次期教皇に推そうとしているとりまきの貴族や商人。誰も彼も男色の趣味を持ち、エヴァンもまた自らが男色家であると装い、屋敷の中にお愉しみのための道具を用意していることをほのめかして彼らに近づこうとしている。
 今のところフランス人の枢機卿と直接のつながりは、エヴァンにはないようだった。じわじわとそのとりまきから擦り寄って、枢機卿に顔をつなぐことが目的なのかもしれない。そして花かワインのどちらかを贈るつもりなのだろう。

(って考えていくと、俺の役割って、やっぱり……。いやいやいや、それ、無理だし! ガーラントがそのフランス人にワインじゃなくて花を贈るつもりなら、上手くすりゃ寸止めってことで済むのかもしれないけど……でも……でも、やっぱり……?)

 教皇だ枢機卿だと言ってみたところで、このローマで金と権力を握って肉の欲と無縁で暮らしている男などいやしない。枢機卿の庶子として生まれたニコルには、そんなことは厭というほど分かっていた。
 ローマで両親と暮らしていたころニコルはまだ幼かったから、そんな現場を目にすることはなかった。だが、父がいつも屋敷に美しい女たちを置いているのがなぜなのかは、あの当時にも分かっていた。そしてその女たちの誰よりも美しい男が……コクトーが父の傍らにいつも寄り添っていた理由も……。

(畜生、何が枢機卿だ……っ)

 父はおそらく、ただコクトーを自分の情人として寝室に連れ込んだだけでは……ないのだ。同じ趣味を持つ仲間を屋敷に呼んで、自らの所有するその美しい肉体を共に堪能するような下衆な真似をしていたのだろう。
 誰に聞かされたわけでもないが、そう気付くのは難しいことではなかった。
 あの火事の直後に見たひとつの光景が……それを教えてくれた。
 どこにも行く宛てなどなく、疲れ果て、空腹だったあのときの光景。夜になっても、屋敷を焼く炎は天を焦がし続けていた。コクトーは何時間も一言も発さず、ニコルの手を握り締めたままだった。
 そこからコクトーとニコルを連れ出してくれたのは、一台の黒塗りの馬車だった。

『私の助けが必要なのではないか、コクトー……?』

 馬車から降りて来ようともせずに、そう声をかけてきた男。
 その男を見上げるコクトーの顔が炎に照らされて赤く染まり、身震いするほどに美しかったのをニコルは今もはっきりと覚えている。

『この子に、食事をさせたいのです』
『……おまえが私のものになるというのなら、その子どもがひもじい思いをすることはない。湯を使う必要もありそうだな。新しい服もいるのでは? 暖かい寝床で寝かせてやりたくはないか?』
『ええ……あなたに……お願いできるのであれば』
『アレッシオの宴でおまえを抱いたときから、私はおまえの虜だよ、コクトー。そのおまえの可愛いお願いを私が無碍にできるとでも……?』

 嫣然と笑みを浮かべた顔とはまるで別人のものであるように、ニコルの手を握り締めていたコクトーの手は今にも泣き出しそうに頼りなく震えていた。
 あれがコクトーがニコルのために最初に身を売った相手だった。
 男はずっと馬車の中にいて、ニコルはほとんど顔を見ることはなかった。名前を聞くこともなかっただろう。だがニコルはあのときのコクトーの手の震えを忘れることができなかった。
 コクトーは決して望んで男たちの慰みものになっているわけではないのだ。父や、馬車の中にいたあの男が……寄ってたかってコクトーを利用し、穢しただけだ。

(でも……俺も、あいつらと同罪だ。俺もただ自分の欲望に駆られて……コクトーが何を思っているのかなんてお構いなしに、コクトーを穢そうとした。守ってやる、守ってやると言いながら、ずっと守られるばっかりだった無駄飯食いの馬鹿のくせに……)

 一年前……コクトーが依頼人に人形を見せるために出かけていく数日前のことが苦く思い出される。
 あのときは完全に頭に血が上って、ただ自分が快楽を味わうことしか頭になかった。無様にしくじったことよりもむしろ、ニコルはそのことを恥じていた。
 コクトーを、コクトーだけをこんなにも愛しているのだから、俺はあいつらとは違う。親父とも、ガーラントとも、あのとき馬車の中にいた男とも……違う。
 コクトーを抱きしめたときには、まるで言い訳のようにそんなことを考えていたような気がする。でもそれさえも、あの瞬間には何もかもが消し飛んで……ただコクトーに触れながら射精することしか考えられなくなっていた。

「ニコル様……」

 いつの間にか書斎に入ってきていた男が、そう声をかけた。
 この男はニコルもよく目にするのだが、どういう役割を担っているのかははっきりしなかった。使用人というわけではなく、この屋敷に住んでいるのでもないようだった。おそらく策略のためにエヴァンが使っている部下のひとりなのだろう。
 淡い金髪に、水色の目。優美と言ってもいい外見だったが、その外見に似合わず腕っ節は強そうだった。身のこなしにも隙がない。
 同じような役回りの男はもうひとりいる。髪の色や目の色が似ているせいで印象がだぶっていた。顔つきはそれほど似ているというわけではないのに、どっちがどっちだったか、分からなくなることがニコルにはよくある。
 ふたりが同時に屋敷内にいるのをニコルは見かけたことがなかった。必ずどちらかは外に出ている。交代で何かの仕事をしているのかもしれなかった。

「特別のお客様がお着きになったので、ニコル様にも顔を出すようにと旦那様が仰っています」
「特別の客……?」

 思わずそう聞き返していた。
 そんな話は何も聞かされていなかったし、これまでには客が来たからといってニコルを呼び出すようなことは一度もなかった。
 第一、当のエヴァンはまだ庭にいる。走り回っている犬に投げた棒っきれを取りに行かせたりして暢気に遊んでいる真っ最中だった。とても客を迎えようといういでたちには見えない。

「客って……誰?」
「私の口からは何とも……。使用人たちには、お客人を客間ではなく庭へお通ししろと指示していらっしゃいましたが」

 意味ありげに男が口ごもる。
 使用人に導かれて、黒い外套に身を包んだ男がエヴァンに近づいていくのが窓の向こうに見えたのはそのときだった。
 思わずニコルは立ち上がり、窓に駆け寄った。

「……コクトー!」

 後ろ姿が遠く見えただけだったが、そう判断するには充分だった。
 そしてニコルにはその瞬間に、エヴァンが何を企んでいるのかを悟っていた。

(ガーラントは……枢機卿を釣る餌にコクトーを使うつもりなのか……!)



by 須藤安寿 ¦ 00:00, Thursday, Dec 17, 2009 ¦ 固定リンク ¦ 携帯

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